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11月8日の顛末 

歴史上出来事。

1923年10月30日にヒトラーはナチ党集会で演説をしている。
ここでかなりの政府批判をし、背水の陣を敷きローゼンベルクやヘスが決起を目指して奮い立っていた。ゲッペルスはまだ政治運動への去就が決まっていなく帰郷している。彼は日記体小説「ミヒャエル」を書いている。

一揆決行 国家枢要の地位にあって時間をかけることができるゼークトやフォン・カール、ロッソーと違い、駆り集めた突撃隊員を食わせる金が底をつき始めたヒトラーは待てなかった。
11月9日に決起しフェルトヘルンハレ(将軍廟)へ向けて行進。惨めな失敗。
アルフレート・ローゼンベルクは1933年11月8日の<フェルキッシャー・ベターバハター>紙に「1923年11月9日の思い出」を寄稿している。
11月8日の午前11時半頃、突然ヒトラーが私の部屋にやってきて言った。「ローゼンベルク、いよいよ今夜決行する。カールが施政方針を試みる。われわれは彼らの一味徒党を一人残らず『ビュルガーブロイ』に監禁してしまう。君も一緒に来るか?」「もちろん!」と答えた。フューラーが今晩彼の車で迎えに来てくれることになった。私は直ちに筆をとってなるべく激烈な内容を盛った宣言文を書いた。
この宣言は翌日<フェルキッシャー・ベターバハター>紙上に掲載された。
午後8時45分ごろ、ヒトラーは私の部屋に現れ、われわれは無言のまま彼の車に乗り、「ビュルガーブロイ・ケラー〔地下食堂〕」へ赴く。
広い会場は立錐の余地もないまでマイ員だった。マックス・フォン・シェイブナー=リヒター博士はもう来ていた。われわれは10分ほどカールの演説を聴いていた。するとそのとき、正面玄関が突如大音響と共に開かれ、機関銃で重武装した人々が入ってきた。それが開始の合図だった。
ヒトラーは同伴者グラーフ、フォン・シェイブナー=リヒター博士と私を引きつれ演壇に駆け上り天井に向けて一発発砲。
そしてナチ運動の氏名を情熱的に語った。しばらく過ぎてカール、ロッソー、ザイサーの歴史的宣言が行なわれた。ルーデンドルフもこのとき、既に会場に駆けつけていたが進んで新政策を支持する旨を宣言した。
ヒトラーが去った後、30分に第二段の運命が決せられた。ルーデンドルフ将軍は三名を放免した。その放免された三人がどのような手段に出るであろうかを直ちにヒトラーは悟ったであろう。
果たして朝の間にバイエルン政府の勤勉な手が「プロイセン人ルーデンドルフ」排撃の有名な檄文を発表した。こうして11月9日の午前両派の宣言文が並んでミュンヘン市のところどころの掲示板に張り出される奇観を呈した。私は「ビュルガーブロイ」から離れていた。ようやく午前11時ごろ自動車でそこまで行こうとした。ディートリヒ・エッカルトとわれわれの印刷所の所有者ミュラーとが同行した。
われわれが「ビュルガーブロイ」に到着したときには一同はすでに市内に向かって行進すべく隊伍を整えていた。ヒトラーは蒼白で厳粛な顔をしていた。傍らにはフォン・シェイブナー=リヒター博士いた。私は彼の手を握った。「事態は急迫した!」と彼は言った。それが最後の言葉だった。ドイツ軍の弾丸が彼の命を奪った。
われわれが行進を開始しようとしたときミュラーは私に言った。「ローゼンベルク君やめたまえ、これは自殺行為だ!」しかし私は第二列に加わった。
警官隊の射撃に次々ナチ党員の身体に命中した。ヘルマン・ゲーリングが右方で倒れていた。
射撃が止んで人々は起き上がった。私は静かに来た道を引き返した。大勢の死者が横たわっていた。人気のないマックス=ヨーゼフ広場に差し掛かったとき私は広場を横切って来る一台の車を見た、前の座席には面をこわばらせたヒトラーがいた。ヒトラーの車は今尚、列をなしていた突撃隊員の前面を静かに過ぎていった。突撃隊は低いしかし雄雄しい「ハイル!」という叫びで彼を送った。

実際はヒトラーは大急ぎで混乱に乗じて救急車で逃亡。ミュンヘンから60キロ離れたハンフシュテングルの別荘に隠れたが二日後の11日に逮捕、ランツベルク要塞に収容される。続いてアマン、シュトライヒャー、エッカルト、ドレクスラーもそこに送られ一揆は挫折した。11月23日ナチ党と突撃隊は禁止され。所期ナチ運動は終わりを告げる。

ヒトラーはランツベルク要塞に収容されている間に『我が闘争』を口述筆記したが、その中では「1923年11月9日12時30分・・・・下記の人々は民族の再興を固く信じつつ倒れた」と書いて16名の名をあげているが当日のことはなんら具体的記述はない。

他一揆参加者
フランツ・ホーフマン 博士号をとったものの、職が見つからない35歳。軍に従軍したこともあり、少尉まで昇進した後、敗戦を迎える。ディートリヒ・エッカルトと基本的には同じ心情からヒトラーの戦闘的な党に加入しついに一揆にも参加した。

ルドルフ・ヘス
11月8日朝九時ヒトラーは私を電話で呼び出した後、私に通告しました。
簡単明瞭に「ビュルガーブロイ・ケラー」で祝典が催されいている間に全閣僚を逮捕するのが役目だた言いました。

ディートリヒ・エッカルト
1923年12月26日に死亡。<フェルキッシャー・ベオーバハター>紙の編集長を辞めた理由も健康上の理由だったがヒトラー一揆に参加した時はすでに酷い病気だった。アルコール中毒による乱飲ですっかり身体を壊していた。短期拘留されただけで釈放された。彼はベルヒテスガーデンに埋葬されている。
1927年にローゼンベルクは「ディートリヒ・エッカルト、一つの遺言」なる著作をこうにしている。
ヒトラー『わが闘争』第二巻でも「第一巻をささげた16人の英雄を上げたが彼らの死者の中に最上の人物の一人として自分のそしてわれらの民族を目ざますため、詩作や、思索やそして最後には行為によって自分の生命をささげた人、ディートリヒ・エッカルトをも数えいれたいと思っている。」と書いている。
しかし一揆後に逃げ込んだ家の主、ハンフシュテングルの回想によればエッカルトは既に一揆前にヒトラーを見限る言葉を語っていた。


エッカルトについては他のオカルト関係の文献を見るといい。



これらの文献によってわかること。
ハイデリヒの死亡時間。
彼は11月8日午後6時前に撃たれたとみるのが妥当。
なぜならヘスは午後6時からヒトラーと共に「ビュルガーブロイ・ケラー」へ行っているため。
ビアホールシーンが午後3時?ならエドが「まだ白ソーセージある?」って聞くのはまだ許容範囲。
んで突撃したのは、午後5時くらいか?それぐらいの時間ってあれぐらい暗いのですか、、、
・・・やっぱりフィクションを現実と統合性見ようというのがいけないのだろうか、、、(凹)

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コメント

おおおすごい!

さすが由宇さんだ! 貴重な資料ありがとうございます!
ところで、11月の5時だったらあの暗さでいけるかもしれません。
11月末にドイツ行ったときは、15時半にすでに夕焼けって感じだったような気がする。
ヒロさんに聞くのが一番手っ取り早いかもしれないけど(笑)

速いよ

さやさん、速いよ。
マジでびっくりだよ、、、
しかも絶対に反応がないんだろうなぁと思っていた記事だったからますますびびった。
なんかのアレじゃないかと、、、(小心者)

そっか!いけますか!!
あっちはかなり早くに暗くなるって聞いてたので、、、。
・・・
ひ、ヒロさんもしこの記事読んでくれましたら教えてくださ、、、!(泣きつき)<や、でもわざわざメールやらブログ押しかけて聞くにも忍びないですよ、、、
お願いしますです、、、(土下座)

御本、楽しみです!

由宇さまナイス!!!
考察有難うございます~!鋼ブロガーの皆様の熱意のお陰で、私もこうやって色々劇場版に関する情報にあやかる事ができるのですよ・・・有り難い(/_<。)

あの暗さですが、11月も末になれば可能です。
今の時点で5時になると夕焼けは終わっていますから。
朝日が昇るのも遅いですよ・・・
うふふ・・・ソーセージに次ぐドイツ名物「薄暗く憂鬱な冬」の始まり始まり・・・

ヒロさぁああああん!

あ、ありがとう!
ありがとうございます!
うわ、書いてみるもんですー(感涙)

そっか、じゃあシャンバラは結構背景とかは時間ちゃんとあってるんだ、、、がんばったなぁ映画スタッフ

いやいや、私はたまたま文献にぶち当たっただけです。それにまだ検証事項が、、、(どこまでやるつもりだこいつ)

本当に、コメント欄からの召喚に応じていただきありがとうございました!

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